読者から寄せられた都城の『噂』をもとに、調査隊長・ガノが真相解明!
今回は『小さな林』に関する噂を調査!
●高城町の新旧R10が交差する交差点と高城高校の間の田園の中に、畑1つ分位の小さな林がポツンとあるのですが、あれは一体何でしょうか?(15番目の男/43歳) |
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この林の存在は、付近に住む私は、当然の如く知っておりました!
しかし、一度たりともその場所を訪れた事はありませんでした。
この林は、私が子供の頃から存在しており、夏の夕暮れ時になっては、
「高城のアソコには絶対クワガタ虫がいそうだよな!」
「絶対いるって! オオクワとかいるんじゃねぇ!」
…と友人同士でワクワクしながら語り合ったものです。
しかし夜になると、田んぼのど真ん中にあって、人気も無く、街灯も無く真っ暗闇の為、実際に現地に向かった勇気ある少年は誰一人おりませんでした……(汗)。
……それから約20年以上経った現在……。
まさかこの地を訪れる時がやってくるとは思ってもみませんでした。
一望して驚いたのは、この林が『竹林』であった事である。
……という事は……
●クワガタ虫は竹林にいない
↓
●少年時代の夢崩壊…(泣)
しかし、この竹林……探索すればするほど、何の意味も無い気がする…。
田んぼの中にあって、小高い丘のようになってはいるが、石碑や看板が立っているわけでもなく、ただ細い竹がまばらに生えているだけの場所である。
竹林の中に入ろうと思えば簡単に入れるし、怪しい雰囲気というより、むしろ爽やかなイメージさえする。
ただ、唯一気になる点があるとすれば、『この竹林を避けるように、綺麗に田んぼが区画整理されている』事である。
そこで、高城生涯学習課に問合せ、その土地を調べてもらった。
すると、翌日の電話で、思いもよらない回答が返ってきたのである!
「その場所は『間ヶ塚(あいがつか)』と呼ばれる史跡ですねぇ」
(ガノ)「ええっ! 史跡なんですか!」
「ええ。……資料によると、1599年10月16日、島津忠恒が伊集院忠真を攻めた『庄内の合戦』で、高城にこもった伊集院方の守将・小牟田清吾が、間ヶ塚に伏兵をしのばせ、島津軍を小田川原から大楽に誘い出し、『激戦となった古戦場』とありますね。」
「塚の名前は、日和城と小山城の中間にあって、戦略上の目印の場所だったので『間ヶ塚』と言われているみたいですね。」
(ガノ)「へぇ〜! そういう場所だったんですねぇ!」
「あっ! 後ですね……この庄内の合戦の際に、島津方は『約300人程が討死』したみたいで、この時の『戦死者を埋葬した』とも伝えられておりまして、『哀れが塚』、『阿和井塚』とも呼ばれるそうですよ。」
(ガノ)「…………何ですと!?」
(ガノ)「…………………(汗)」
マズイよ……確か「こんなタケノコも出来そうにない場所に、何の意味もねーよ」と言っちゃったよ……(汗)
後日、無礼な態度をとったお詫びをしようと、再び竹林を訪れたガノ。
そして供養を済ませ、帰ろうとしたその時であった。
……この場所から6田んぼ程挟んだ先に、雑草の生い茂った丘のような物が見えるが、アレは何なのだろうか?
とりあえず、近づいて調査をしてみる事にした……。
…………………
どうみても史跡っぽい(汗)
朽ち果てているが、木碑らしき物も立っている……。
そして、嫌な予感 が頭を過ぎる……。
「もしかして……こっちが『間ヶ塚』なんじゃないの!?」
そこで、すかさず高城生涯学習課に再び問合せてみたところ……
「あの後、私も現地を訪れてみたら、間ヶ塚とは別に竹林の丘があったんでビックリしました。その時、ガノさんの知りたがっていた場所は間ヶ塚ではない事に気付いたんですよ。」
(ガノ)「じゃ…じゃあ、あの竹林は一体何なのですか?」
「それが全く不明なんですよ……。あの場所に関しては、こちらでも調べる方法が無いんです……」
……私は、一体『何』に供養していたのだろうか…(汗)
※画像をクリックすると拡大 |
私が供養している姿を、数人の散歩している人達にも目撃されている…。
「ただの竹林に、スーツ姿でカメラをぶら下げた男がお祈りしていたよ!(笑)」
……こんな話題が付近住人の間で持ちきりになっているかもしれない……(汗)
このまま終わっては格好つかないので、竹林については、今後も調査して参ります!
また、皆様からの情報もお待ちしていますので、ご協力お願い致します!
※この記事は紙面「きりしまフォーラム 2008年4月号」に掲載されたものです。